保護猫のいる映画部屋

猫と映画とドラマと暮らし☆

名を正さないといけない

年末の大掃除の時期だけれど

寒がりな私は特別なことはしない(笑)

 

仕事をやめてから趣味で取得したクリンネスト1級のテキストに書いてあった

 

「お掃除も季節を味方につけること」

夏は暑さと乾きやすさを利用して油汚れやカーテン洗い

冬は寒さを利用して冷蔵庫内の掃除や結露対策に窓枠などをするとよい

など。

 

だから、何も年末だからと言って必死にあれやこれやと

がんばらなくてもいいのだと思う

1年を通して季節ごとにすればいい♪

 

なまけグセのある私にはとってもありがたい情報だった(笑)

 

そうです、がんばらなくてもいいのです

嬉しい・・・

 なまけすぎか・・・

 

とはいえ、

さすがに私も気持ちが落ち着かず

今日はカーテンを洗った

(乾きにくいので理にかなってないぞ)

 

そう、理にかなってはいないけれど

今日はカーテンをどうしても洗いたかったのだ

 

季節を味方につけないといけないのだけれど

洗いたかった

ただそれだけ(笑)

 

いつも思考があちこちに飛び散らかす私はそんなことから

また、以前に読んだ安冨歩さんの「生きるための論語」の中のことを思い出した。

 

良く色々と思い出してしまう💦

 

論語の中に「正名」というのがある

「正名」=「名を正す」

 

子曰わく、觚(こ)、觚ならず。觚ならんや、觚ならんや。

孔子はとっても怒っている

 

『觚は角のある盃だけれどもそれは名ばかりで今は角が取れて丸くなっている。

あるべき姿ではなくなっている』

だから怒っている、と解釈されていることが多いけれど

 

安冨さんの解釈は

 

「祭礼の最中に飲み過ぎないように盃が小さく作られていて

それを「觚」と呼んでいた(中略)

 

一升を「爵」と言い、2升を「觚」、3升を「し」(漢字が出てこない)、

4升を「角」、5升を「散」と言っていた。

 

祭礼の時、みんな「觚」では物足りないので、勝手に盃を大きくしてがぶがぶ飲んでいた

おそらく孔子は、それは愚かではあるが、それはそれでいい。

 

彼が怒っているのは盃を大きくしたいのなら「觚」と呼ばずに「し」や「角」「散」とサイズに応じた名前で呼べと怒っている

 

なぜなら小さいサイズの盃を使って、真面目に儀礼をやっているフリをして、実際には大きい盃で飲み会をやっているのは欺瞞だからである」

 

正しく名前を呼ぶことが大切なのだと・・・

 

「危険な作業をしているのに「安全」と呼べばどうなるのだろう」

「危険な作業をして事故が起きたなら、事故が起きたと言わなければならない」

「事故が起きた」と言わずに「事象が発生した」と言われればどうなるだろう

 

「怖いものは怖い、嫌なものは嫌、やりたいことはやりたい、このように「名」を正しく呼ぶことが、人間がまともに生きるための第一歩なのである。ここをゆがめてしまうと、そこから先は何が起きるかわからない。」

と書いてある。

 

激しく納得する。

 

確かに、「いじめ」ではなく、「暴行事件」と呼ぶべき場合もある

 

性加害をした「被害者」をなんだかんだと(言いたくない言葉)矮小化して呼ぶ人もいる

 

正しい「名」で呼ばずに矮小化されていることは多い

 

隠された正しい「名」を見極める力をつけんとあかんのだと

孔子は言っている。

 

私はやっぱり安富さんの解釈が腑に落ちる。

 

「名は正されなければいけない」

 

ただ、カーテンを洗っただけなのに、

またまた飛躍してしまう悪い癖が出てしまった💦

 

さて、明日は寒さを利用して冷蔵庫整理をしよう♪

 

したいから(笑)

 

今日の我が家の猫画像

保護猫1号*虹の橋組のミルク君(左)

保護猫4号*現役組ののりちゃん(右)

お膳の下からこんにちは💛

かわいいね♪